【学生時代】
小学校時代は少年野球、中学時代は陸上、そして高校時代はバスケットと今では誰も認めてくれない程にスポーツマンでした。
そして、勉強の方はと言いますと、中学までは下手に優等生だったため高校は進学校へ。
これが、落ちこぼれへの入口でした。
各中学校のトップクラスが入ってくる高校なんでやっぱりみんなスゴイんですよ。
勉強なんてしてない!してない!って言いながらみんな塾行ったりしてたよね、今思うと。
私の家はと言いますとそらまぁ経済的に苦しくて、塾なんぞ行ける状況ではございませんでした。
そんな状況の下、みんなの「勉強なんてしてない!してない!」って言葉を信じた結果、しっかり落ちこぼれのポジションを確保しました。
当然、大学にも受からず、何とまぁ2浪まですることになりました。
自業自得です(笑)
でも金も無いのに浪人ですか?
もちろん、予備校なんて通えませんから1年目はバイトしながら自宅で受験勉強。
でも自分にあま~い私がそんな環境で結果を出せるわけも無く、当然のように2浪目突入。
悲しいかな進学校に通ってましたので、1浪すれば大抵の人はそれなりに有名な大学に受かるんですよね。
そうなるとやっぱり少しは恥ずかしいわけですよ。
で、逃避行!
どこへ?
東京へ!
おら、東京さ行くさ!ってな感じでね。
えっ?金も無いのに?
そうです!金なんてありませんわよ。
だから、住み込みで働く新聞奨学生ってヤツに応募して東京に行きました。
悲惨でした(笑)
当時の新聞奨学生制度ってのはですね、年度始めに1年分の学費を貸してくれる訳です。
で、1年間勤めたら返済不要になるんですね。
では、途中で辞めちゃうとどうなるか?
一括返済を迫られます!
そういうわけで金の無い立場からすれば、絶対に辞められない足枷を履かされるんです。
でも居ましたよ。息子を連れ出した親。
こんなところ早く出なさい!お金は何とかするから!って言って息子を連れ出したなぁ。
だったら最初から金出してあげればいいのにね。
で、そんなところで住み込みで働きながら、代々木ゼミナールへ通ってました。
代々木本校だったので、有名講師いっぱいいましたね。今は東進ハイスクールへ行ってる方もいますが・・・・
ところで、新聞屋での住み込みってのは、朝は4時起きで夜9時には就寝。ここは刑務所か?ってツッコミ入れたくなるで、ホンマ。
朝・夕刊の配達だけじゃなく、月末には集金もあったので今思うとよくあんな環境で大学受かったなぁって思います(笑)
大学入って目指したもの!
悪徳弁護士!
ウソです!(笑)フツーの弁護士。
やっぱ金ないですからねぇ。弁護士になって儲けてやるぜ!って下心だけしかなかったので、途中で挫折します(笑)
これも自業自得です。
でもまぁ法律勉強してたことは、不動産業をやる上では非常に役立ってます。契約書作成・覚書作成大好き不動産屋の原点は、ここにあります!
【ニート時代】
一応ね表向きは弁護士目指して、司法試験の勉強してますってことで、就職活動もせず卒業。
バイトしながら、少し勉強(笑)
こうなると歴としたニートですよ(笑)
一応バイトはしてたんですが、社会的には存在価値なしの状態です!
そんな折に、義兄より制作スタッフとして手伝ってくれとの話があり、関西へ戻りました。
義兄は和太鼓グループの主宰だったんですが、プロモーターとの契約関係でトラぶってまして、相談に乗っていたらそのまま手伝うことになりました。
もちろん、芸能の世界なんて右も左も分かりませんわよ。
しかも制作スタッフって言ってもね、実際にやってることと言えば義兄の娘の子守と飯炊きだったもんね(笑)
メンバー10人位いたんで、そらもう毎日10人分のご飯作るって、えっ?俺、相撲部屋の女将か?ってくらい料理人に徹してたわよ。
でも、全国回れたのは、面白かったですね。
大阪から北海道の室蘭まで車で移動ってスゴクないっすか?あれは今でも記憶に残ってます(笑)
あと、車で湯布院も行きました!
ハッキリ言ってどちらも遠いです!
でもまぁ元々法律家目指してた奴が芸能の世界に馴染めるなずもなく、約2年ほどで辞めました。
【32歳の社会人1年生】
その後、派遣社員なんかも経まして、何とまぁ甲斐性なしが結婚することになりました!
やっぱり結婚するとなると、定職に就かないとマズイじゃないですか?
でも30超えた何の取り柄もないオッサンをスグに雇ってくれる程社会は甘くはなく、これはヤバイと思い立ち宅建くらいは取っておこうということで宅建を取得したのが不動産業の始まりでございます。
のちにお世話になる不動産屋に面接のお願いの電話をした時、受話器の向こうから『おい、コラっ!何嘘ついとるんじゃ!ボケっ!おのれ月末までに家賃払う言うたんちゃうんけ!』って聞こえてきました。
若干の不安はありましたが、内定貰えたのでそのまま就職しました。
で、就職して判明したことは、不安が的中したってことです(笑)
毎日が恐怖でした。
しかも、私自身も酷かった!
32歳にして初めてお客さんからの電話を取るわけよ。当然、まともじゃないわけで、毎日毎日ドヤされてました(笑)
32歳の社会人1年生ってのは、今思うと相当イタかったでしょうね(笑)
店長さん、その節は大変ご迷惑をお掛けしてスミマセンでしたm(__)m
入社から1年程して別の店舗へ異動になりました。
異動先の店舗には、パンチパーマにセカンドバック加えて歩き方はガニ股という典型的不動産屋オーラ全開の店長が、待っておりました。
その店長から突然の業務命令。「おい、お前ら!明日から飛込み行ってこい!」
まさに「えぇぇぇぇぇぇっ!?\(◎o◎)/!」ですよ。
社員募集の要項に「飛込み営業なんて必要なし!反響営業だから楽チン楽チン!」って書いてたやん!それ信じて応募したのにぃウッソォ~!って思ったけど、パンチパーマの店長に当然楯突くこともできず、行ったさ飛込み営業。
でもね、何でも経験するもんですね!飛込み営業って学ぶこと多いんですわ。
主たる営業手段とするのは、今の時代に合わないと思いますが、一度くらいは経験した方が良いと思いますね。
今じゃありがたい経験をさせてもらったと感謝しております。
【過労時代】
分譲マンションの管理会社では、過労ということを経験させていただきました(笑)
1~2ヶ月休みなし、とか、終電で帰れません、とか。
そんな中でマンション管理士と管理業務主任者って資格も取りました。
新聞奨学生時代の経験が、活きたのかもしれませんね(笑)
一応、全国規模で業界でも上位に位置する会社だったので、社内のシステムはやっぱりしっかり構築されていました。
のちに1つの店舗を任されたときに業務の流れを再構築する際、めっちゃ参考にさせていただきました。
で、この会社、今は21時にはパソコンの電源が落ちるので、それ以後の残業はできない環境らしいです。
私がいる時にそうしてくれてれば、辞めなかったのになぁ(笑)
一般的に管理会社って聞くと、どこか受身的な印象を持たれるかと思いますが、実際はイケイケの営業会社でした。
いわゆるディベロッパーと言われるマンション開発会社の子会社であれば、黙っていても管理物件は増えますが、私が属していた管理会社は管理に特化したいわゆる独立系の管理会社だったので、営業して管理物件を増やさなければならないという宿命を負った会社でしたので、かなりイケイケの営業会社でしたねぇ。
しかも私自身は、同時平行で色んなことも担当してました。
管理担当、営業担当はもちろんセミナー企画、セミナー講師、採用担当、内部監査などなど。
更に営業して管理物件を獲得すると、自動的に自分が担当する管理物件になるので、頑張れば頑張るほど仕事が増える。
過労になるのは当然ですよね?(笑)
【急激出世時代】
賃貸マンションの開発・サブリースの会社に転職してまず最初に配属されたのは管理部門(PM)でした。
管理経験があることからして、当然の流れですよね。
この会社はベンチャー企業だったので、社員構成も非常に若く管理ノウハウも未熟だったため、入社後は書類の保管方法からやり直しました。
鍵の管理もビックリする状態でしたね。
実際ね、鍵なんてものは付けてた札がなくなっちゃうと、ただの金属の塊に過ぎませんからね(笑)
これどこの鍵???って状態になれば万事休すですよ(笑)
やっとPM部門も落ち着いたかなぁと思った矢先、営業部長に!
いやいやいや、いきなり営業部長って無理っすよ!不動産ファンド相手に営業なんて出来ませんよぉ~!って感じでかなり抵抗しましたが、会社というものは断ることができないシステムになっておりまして、しかも同時に取締役にまでなってしまいました。
でも、今思うと、これも引き受けていて本当に良かったと思います。
ファンド物件でもお客様にご迷惑掛けることなく、スムーズに契約できるのものこの時の経験のお陰ですからね。
これはちょっと荷が重いぞ!これはちょっと大変だぞ!ってくらいのことは、素直に受け入れてやっちゃった方が自分のためですよね。今はそう思います。
しかしまぁ、つい数年前までは電話の取り方も知らなかった32歳社会人1年生がですよ、営業部長に取締役ですからねぇ。自分でも笑ってしまいます。
給料もそれなりにありました!
でもそんな立場は一瞬でなくなりました!
内紛ってヤツですよ(笑)
当初は当時の代表者が会社を去って、残りの役員で経営をしていく予定だったんですが、「この会社は俺が作った会社だ!お前らが出て行け!」って言われたもんだから、他の役員全員が「それならどうぞどうぞ!」ってまるでダチョウ倶楽部みたいになって全員辞任しました。
【上場会社から民事再生時代】
内紛に巻き込まれて会社を去りましたが、有り難い事に上場会社からお声を掛けていただきました。
面接即内定をいただきました。リー即ツモ的な引きの良さ!(なーに言ってんだか(笑))
任された業務はM&Aした会社の建て直し。その会社の主たる事業は、不動産賃貸業及び仲介業で所在地はなんと群馬県。
行った事なんてありませんわよ、群馬県なんて。辛うじて関東地方だったよなぁ。。。。的な認識しかございませんでした。
東京に10年いましたが、それでも群馬県の存在感は感じなかったですね(笑)あ、群馬の方、スミマセンm(__)m あくまで私個人の感想です。
それで入社後程なくして、週1回の群馬県出張が始まったわさ。新幹線乗り継いで片道5時間!
現場の社員は、「何なんだよ?この大阪弁のオッサンは?」って感じで最初は距離を感じましたね(笑)
まぁそりゃそうでしょうよ。いきなりM&Aされて、今までの社長がいなくなって、今日からこの人の指示でやって下さいって言われてもねぇ。
人間そんなスグに切り替えできるものじゃないし、特にそれまでのやり方を変えられたら抵抗もするってもんですよね。
たかだか5人の会社でも、今までのやり方を変えるのにものすごい抵抗をするんですから、既得権を奪って社会のシステムを変えようとする橋下(前)市長はやっぱ単純にスゲーって思いますね。
で、任された会社の社員とは、当然のこと最初は距離もありましたが、最終的には、皆協力的に頑張ってくれました。
そんな中、リーマンショックが起こりました!
当初は直接的な影響はなかったんですが、大きなプロジェクトが頓挫してから雲行きも怪しくなり、とうとう民事再生法の適用申請を・・・・・
そうなるといわゆるリストラが始まりますよね。
辞める直前は販売中の物件チラシを朝から晩までポスティング。スゴイ給料高いポスティングバイトですよね、これって。
しかも一日中外なもんんだから、まだ5月なのにもうとんでもなく真っ黒なわけよ。ほぼまっくろくろすけなわけ。
んで、たまーに事務所に立ち寄ると内勤の人達に「えっ?ハワイでも行ってきたん?」なんてイジられるんですが、いやいやいやいや、そんな冗談言ってる場合かよ!俺もおめーも民再会社在籍中やで!って言い返してやりたかったが、そこはグッとコラえてヘ(__ヘ)☆\(^^;ナンデヤネンって程度で返してましたがね。
暫くして上司が、「所属の部署がなくなるけどどうする?」って聞いてくる。
いやいやいや、どうする?って選択肢は辞めるしか残されてないやん!というわけで、希望退職に応募して退職という選択肢を選びました。
まさかねぇ、入ったときは上場企業で辞めるときは民再申請会社って。正にジェットコースターみたいな2年間でした。
【円形脱毛症時代】
当時の世はまさに不況のど真ん中。40超えた高給取りはそもそも面接にも辿り着けず、履歴書何枚書いたか分かりません。
そんな中、大阪では仲介会社としては比較的知名度の高い会社から内定をいただき入社しましたが、配属されたのはPM部門。
そもそも管理に関する考え方があまりに自分とはかけ離れていたため、すぐに退職を決意いたしました。
その考えの違いの大きさは2箇所も円形脱毛症になる程でしたから、自分としてもかなり厳しかったですねぇ。
【起業から現在】
不動産仲介業者の収入源は手数料です。とりわけ賃貸仲介業者の手数料は、契約する物件の賃料を基準に決まります。
大きな物件と小さな物件とでは自ずと賃料に違いが生じます。
そして、会社に属していると売上げというプレッシャーがあります。加えてほとんどの営業マンが歩合給のため、賃料が高い案件に注力することはある意味致し方ないことです。
でも、不動産業界って本当にそれでいいの?
起業家は起業した分野には精通していても、事業の拠点となる事務所に関しては精通していない。
であれば、その部分でお役に立てるには、コンパクトな賃貸オフィスに特化した仲介業だ!と考えて株式会社OfficeYouKIYOを立ち上げ起業しました。
たとえ最初は小さい事務所からの出発でも、数年後には雇用を生み出すんだ!社会貢献するんだ!との思いを秘めた起業家をサポートしていきたいと思っております。
【自分にしか無い強みとは?】
起業をされる方は、ある意味順風満帆ではない方が多いのではないでしょうか?
順風満帆な方は敢えてリスキーな起業なんてしないでしょうから(笑)
わたくしも、幸い順風満帆な人生ではありません(笑) 紆余曲折ありました。その分、起業家の方と共有できる経験も多少はしてきたように思います。
そして、まだまだ景気の回復はままなりませんが、本当の意味で景気が良くなるには起業家が元気であることが必要と思います。
その元気さの一助になれる存在でありたいです。
更には、その積み重ねによって不動産業界のイメージを変えたい!そう思っております。
ある方が言ってました。「イメージを変えるということは、革命なんだよ!」って。
悪いイメージを払拭して、不動産業界のイメージ革命を起こしたい!
そんな思いを抱きつつ、起業家であるアナタ(You)の元気に寄与(KIYO)したいと思います。